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が日米共同研究「オークランド・横浜スタディ」のために設けられ、一九八二年にオークランド消防本部にコンピュータ・マッピングを利用した、都市安全管理システムが導入された。この「危険エネルギー」の報告書は二五年たった現在、ようやく横浜市の地震対策のためG.I.S.(地理情報システム)を使って実戦的な危機管理のために活用されようとしている。また「都市安全管理システム」は、一九九五年の夏、ワシントンで行われた情報技術をいかに人間が利用して行くかの検討会で評価された。それは、アメリカで情報技術の活用に関する議論の中で、データを情報化し、情報を知識化し、知識を知恵とするプロセスの後半の難しきをどう解決するか討論していた時に、私は「都市安全管理システム」に情報を知識化し知恵とするのは人間の頭脳であり、その頭脳に刺激を与えるのは、現実に発生した災害や事故の事例という、人間にとって痛みの事実だということを書き込んであったからである。
はっきり言って、消防に携わる人達は事故や災害の痛みの事実を誰よりも早く、なおかつ直接的に知り得る立場に居るわけで、そのことをもっと活かすべきではなかろうか。
(四)災害情報は社会の財産
災害や事故は不幸な結末のため、できるだけ早く忘れてしまいたいし、思い出すのも苦しい事かも知れない。確かに不幸な結末ではあるが、社会を変革する力を持っていることも事実ではなかろうか。技術開発にとっても見逃していた大切な視点を教えてくれる、知恵の塊ではないのか。
人間の身体の仕組みの中で成長や生命維持に必要なプラスのプログラムの大切さは、理解やすく確認できるため、昔から研究が進められてきたが、人間の生命維持にとって、これまで不必要だから消えて行くとか、分解してしまうと考えられていたものが、マイナスのプログラムに支配されていて、人間にとってプラスのプログラム以上に大切な存在であることが判明したのは、四〜五年前のことであった。マイナスのプログラムの存在が分かってから病気の治療にも新しい展開がみられたという話を間いて、もしかして自分がやって来た事故や災害の研究は、都市社会のマイナスのプログラムであり、その存在は、都市社会の基本構造を見直させる何かがあるのではないかと考えた。もっと災害や事故を直視し、それから充分に学はなければならないのではないか。
私は、可能な限り災害や事故の現場には足を踏み入れるように努力している。それもできる限り現場に手が加えられない早い時期に行くように心がけている。現場に入るためには、現地の消防や警察のお世話になることも多い。私は幸運にも多くの現場に直接入ることが出来、多くの事を学ぶことができたが、現場に、民間人として入ることの難しさは、昔も今も変らない。どうやって現場に入れたかは、一つ一つ違っており、こうやれば入れるというマニュアルは無い。たしかに直後に現場を訪れるのは、忙しい関係者に迷惑をかけることになり心苦しいが、現場は早くなければ多くを語ってくれない。
日本では事故原因調査はあるが、事故そのものの時間的空間的把握が出来る災害調査はほとんど難い。災害に学ぶためには、時間・空間の現象としての災害を押えなければならない。そのためには災害現場にできるだけ数多く通い、現場の関係者からのヒヤリングをくり返す必要がある。災害の跡から、災害が発生してから、大きくなるまでのプロセスを正しく読みとる能力を持たねばならない。
一九七二年五月二二日、大阪の千日デパート火災が発生し、一一八名の死者と八一名の負傷者を出したが、この現場に、翌日の午前一〇時過ぎに入ったときは、いまだ現場には九六体の遺体が、運び出されずに残されたままだった。その後この現場に何度も通い、火災の時系列的展開を調べ、七階における煙の充満の様子と避難者の動きを時間別に図面上に定着させる作業を行ったが、このような手法※3は、その後各国の災害事例で試みられるようになってきたが、日本では、その後ほとんど見られない。それは現場の情報が公開されないために、たとえ関心のある研究者が居たとしても出来ないからである。その頃、イギリスの災害レポートが、災害現象そのものの分析が良く出来ていて、われわれのレポートに近いことを知り、一九七五年の秋にイギリスに行き、事故調査のあり方を直接調査した。
イギリスでは公的調査制度(Public Inquiry)があって、事故や災害が第三者機関によって調査されていた。女王様が国民にとって大切
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